今日はサグラダ・ファミリアへ行く!
そう決めて目覚ましを6時にセットしたが、気付いたら9時半だった。なぜ?
サグラダファミリアは朝一で行かないと入場に待たされるようなので、これはイカンと急いで準備をし、ネットでYoutubeを見て、11時頃に宿を出る。ん?
建設中のサグラダ・ファミリア、鉄骨も見えたりする。あまり“味わい”みたいなものはない。
反対側に回り込むと、こちらはすごい装飾。より古く、細かく、グロテスクにさえ見える装飾は好みが分かれそう。全体のシルエットは、変な例えだけれど、曲線的な尖塔がどことなく冷戦時代の旧ソ連の超音速機を連想させて好き。
それにしてもこの穴だらけの尖塔、風が吹いたら音が鳴りそうだ。
チケット売り場には長い行列。サグラダファミリアが建っているブロックの1/4周くらいの長さで、結局30分待ってチケットを購入。しかも今は入場制限中で、14時15分にならないと中に入れないらしい。
時間が空いてしまったのでブラブラと街歩き。ちょっと前にイヤホンが壊れてしまったので、10ユーロで適当なものに買いなおす。
その後にカフェに入ってサンドイッチとビールの昼食。
時間ちょい過ぎにサグラダファミリアへ戻り、チケットを見せて入場。とにかく人が多い。
装飾は近くで見ると結構荒い造形。技術的な問題というより、たんにそういうデザインなのだろう。
正確なところはわからないが、今までのクロアチアからフランスにかけて見てきた中世のカトリック教会に見られるような写実主義的な装飾とは異なる。
それもそのはず、サグラダファミリアは19世紀末に建築が始まり、今なお未完成の建物。つまりヨーロッパの長い歴史においては「最近」とさえ言える時代の建築なのだ。実際にサグラダファミリアを見ての感想は「これは現代建築なんだ」というものだ。ガウディの設計(実際には当初は別の建築家の設計でスタートした計画らしいが。Wiki情報。)とはいえ当人がとうの昔にこの世を去っているので、ある程度の設計図はあったとしても、これだけ細部の装飾にこだわった建築に隅々まで当初の設計案が引き継がれているとは思えない。きっと多くの箇所は今実際に建築に携わっている職人達の手によって考えられているのではないかと思う。
中も人が多く、完全に観光地。教会らしい神聖さや厳かさというものはあまり感じられない。が、ステンドグラスから入る光の美しさは見事。窓枠(といっていいのか?)の部分にはほとんど平面がなく曲面とエッジの効いたデザインで、それが光に明暗を与えていて美しい。また、工事の際の保護のためか壁に薄いネットがかけられているのだが、それがむしろ光を柔らかくしていて綺麗という皮肉な状況。
実に数学的なデザインだ。
サグラダファミリア、確かに建築物として立派で壮大で見る価値はあると思うが、個人的には好みではなかった。いや、全体のシルエットや尖塔のデザインは好きなのだが、抽象的なモダンアートのような彫像や、グロテスクと言ってもいいほどの過多な装飾は、興味深いとは言え好きなデザインとは言えなかった。もうこれは完全に個人の趣味の問題だ。しかしともかく、強烈で個性的なデザインであり、それこそがガウディの才能であったのかもしれない。
ただそれとは別に、ここが将来、本来の目的である礼拝施設として機能するのか疑問が残る。2026年完成予定というサグラダファミリアだが、少なくとも今現在はただの観光地であるように見える。壮大さは感じでも、神聖さは感じられない。こんなに多くの観光客がいては、信徒達もとても祈りに集中できないのではないのだろうか。
そういう意味では、今後の展開が楽しみな建築物ではある。完成後の、そして数世紀後のサグラダファミリアがどう扱われているのか。今日残る有名な大聖堂も建設当初はどれも“現代建築”であったわけで、このサグラダファミリアも数世紀後には風格漂う信仰の場として残っているのかもしれない。
帰りは地下鉄を使わず宿まで歩く。なかなか綺麗に整備された街で歩いていても気持ちがいい。
途中で見つけたオタク系のショップに入ってみる。中は客で賑わっていて、みんな楽しそうに商品を選んでいる。
日本のコミックやアメコミが多い。ドラゴンボールやスラムダンクなんかの有名系の他にも「進撃の巨人」、「蟲師」、「暗殺教室」、「聖おにいさん」とか。聖おにいさんはキリスト教圏ではどう受け止められるのだろう。
なんだかオタク文化を見るとホッとする。
日本にいる時は「ヨーロッパは日本より生きやすそう」という印象を持っていた。日本みたいに時間に追われているようには見えないし、働き方も選択肢がありそうだったからそう感じていた。でも実際にヨーロッパを旅していると、ヨーロッパはヨーロッパである種の窮屈さや息苦しさがあるんじゃないかと思い始めた。それは単純に不便さ(日本のようなコンビニや、清潔で無料の公衆トイレ、正確な公共交通機関なんかが無い)からくる「生活のしずらさ」でもあるが、それ以外にもなんとなく「生き難さ」を感じてきた。
上手く言えないけれど、周りの人間がみんな同じように見えてきたのだ。周りの人間がみんな“リア充”に見えてきた。カフェのテラス席で談笑していたり、仕事帰りにバルで飲みながら友達と談笑していたり。馬鹿みたいな話だけど、恋人がいて友達に囲まれているのが当然で“お洒落で格好良い”生活を極々自然に受け入れているように見えて、「これは一人では生き難いな」と感じた。よっぽど孤独への耐性が無い限り、独り者には厳しい社会に見えた。そういう点ではある意味、オタク(或いは非リア充)と呼ばれる人たちを受け入れつつある近年の日本の方が、社会が人々を受け入れる許容範囲が広く、自由なのではと。
でも言うまでもなく、それがヨーロッパの全てではない。周りがみな同じように見えたのは、単純に自分が狭い一面しか見られていなかったということで、現にこうやってオタク文化を発見して、ヨーロッパでの生き方の幅みたいなものを垣間見れた。だからホッとしたのだ。
もちろん、日本とヨーロッパではきっと社会の構造や傾向に大きな差異があるはずだ。でもそれはどちらが良い悪いと決められるものではないし、また人によって向き不向きもあるだろう。日本が気に入って日本で生活する外国人もいれば、日本での生活に馴染めなくて外国で暮らすことを選ぶ日本人もいるだろう。
まあとにかく、この店はある意味、現地の人々の素の姿(限られた一面だが)を表しているともいえる。
なんだかサグラダ・ファミリアより考えさせられるオタクショップ訪問だった。
バルセロナにはピカソ美術館もあって少し気になっていたのだが、しかしここもやはり入場に長い行列が出来ていたので諦める。
昨日も行った市場でシーフードのフライを買い、スーパーで買い物を済ませてから宿へ戻った。